≪奔走≫
ただひたすら、走り続ける。
そうしないと、お前はいつか、オレを置いて、何処かへ行ってしまいそうだから。
いつの間にか、暑い日々が続いた夏休みも終わり、再び学校へと向かう毎日が始まっていた。
散々響き渡っていた蝉の鳴き声も、今では鈴虫のものにとって代わっている。
(もう、出る幕じゃあないからな)
ふと、心の中で、自分と蝉の立場が重なる。
出番は、もう終わったのだ。
引退は避けては通れないもので、夏の大会後、作弥をはじめ三年生の部員たちは、皆慣れ親しんだ部活動から離れていった。
最後の大会。
惜しくも上の大会へと進むことは叶わなかったが、悔いのない走りは出来た。
そう、作弥は考えていた。
進学しても陸上を続けるつもりの彼女は、引退後も暇を見ては、グラウンドに足を運ぶ日々を送っている。
身体が鈍ってしまわないように。感覚を忘れてしまわないように。
放っておくと徐々に体力が落ちていってしまう。それらを防ぐための行為である。
…だが、それは結局のところ建前というものであって、
本心は別のところにあるのだが。
「だから、今日も部活に顔出してくるから。誰か他の奴と帰れ」
「はあ?またかよ!」
放課後、教室では、作弥の言葉に対する慎之助の不満の声が響いていた。
「引退したんだからいい加減行くのやめろよ!」
「定期的に走っておかないと身体が鈍るだろーが!そっちこそそんなこと言ってる暇があったらいい加減一人で帰れるようになりやがれ!」
「ちゃんと帰ってるだろ!?」
「いつもいつも迷子になって夜遅くに捜させてるのは何処のどいつだ!頼むから自覚しろ!」
「俺そんなに子どもじゃねーよ!」
「そういう問題じゃねーっ!論点かみ合わねーなこの阿呆!」
そう怒鳴り散らすと、周囲が不安そうに見守る中、作弥は鞄を手に取った。
「とにかく!オレは部活に行く!お前はさっさと帰れ!(同伴者付きで)」
「…」
口を尖らせたままの慎之助は、しばらく作弥と睨み合った後、こちらも鞄を持つと、
「いーよ、俺一人で帰るから」
「夕暮れまでにちゃんと帰れる保証はあるのかよ迷子野郎」
「じゃあ左勇と帰る」
「なお悪いわ!!!そこに同伴者をつけろ!」
大体、左勇は委員会の方の引き継ぎの作業で忙しいだろうが!という作弥の言葉に、慎之助は返す言葉を無くした。
ここ数日、作弥は引退したはずの部活に顔を出し続けている。その度に慎之助は、帰る方向が同じの友人に頼んで、家まで付いてきてもらっているのだが、いい加減その行為も申し訳なく思っているのである。
…というのは建前で、本音としては、ただ作弥と一緒に帰りたいだけなのだが。
(なんて、言えるはずもないしなあ…―――――――!!)
しばらく考え込んだ慎之助の脳内に、ふと、ある考えが浮かんだ。
(ようやく諦めたか…、さてと、部活行くか…)
「じゃあな」と、作弥が去ろうとした瞬間、
「!?」
グイ、と、腕を引っ張られ、バランスを崩しかける。
「っ…何すん「俺も行く」
言葉を遮られた上の一言に、開いた口が塞がらない。
「…は?」
「だから、俺も一緒に走る。それでいいだろ?」
「…はあ!?何言ってんだ!大体お前は陸上部の人間じゃないだろうが!」
「別に、走るくらいなら問題ないだろ?今の部長とも顔馴染だし」
「だからって…!」
確かに、慎之助の言っていることには納得できるものがある。
しかし、作弥としては、彼を走らせるわけにはいかなかった。
(こいつ、何のためにオレが走ってると思って…!)
その理由を、慎之助が知る術は無いのだが。
「とにかくダメだ!誰かしら捕まえて帰れ!」
壊れんばかりに勢い任せに扉を開けると、丁度扉の前を歩いていた生徒たちが、あまりの大きな音に小さく悲鳴をあげた。
そんなことお構いなしに歩を進める作弥の後を、慎之助は眉間に皺を寄せながら追う。
「おい作弥!ちゃんとした理由になってないぞ!」
「知るか!つーか追っかけてくんな!」
早歩きとはいえ、すぐに慎之助は追いついてしまう。
ぴったり横につけると、むきになって言った。
「じゃあ作弥は、俺が女子と帰ってもいいって言うんだな」
ぴた、と、作弥の歩みが止まる。
「は?」
「別に、作弥がそこまで言うんなら、帰ってやるよ。女子と」
(はあ!?)
突然の言葉に、頭の整理が追い付かない。
(いきなり、何を言うんだこの馬鹿は!)
そもそも、そこで何故女子という単語が出てくるのか、作弥にはさっぱり理解が出来なかった。
ただ、訳のわからない妙な違和感が、彼女の胸の中を支配していた。
それが何なのか、その方向に関しては鈍い作弥は、全く解らなかったのである。
「べ、別に、好きにすればいいだろ!?そんなのオレの知ったことか!」
反射的にそう言って、慎之助の顔を思いきり睨みつけた。
(あ…)
「そーかよ」
見たことが、無い顔。
今にも泣きそうで、それでいてどこか寂しそうで、見ただけで切なさと怒りが同時に伝わってきそうな。
この世に生を受けてから、ずっと一緒だった筈なのに、作弥の記憶の中には、目の前の慎之助の表情は見当たらなかった。
自分は今、何かいけないことを言ってしまったのだろうか。
「じゃあ、お望みどおり帰るよ、誰かと」
吐き捨てるように言うと、踵を返して教室の方に戻っていく。
「ちょ…」
振り返るが、廊下には下校する生徒が多く出ており、慎之助の姿はすぐに見えなくなってしまった。
「なんなんだよ…」
何故か、胸の辺りに痛みが走る。
正確には、痛みによく似た、苦しみ。
「なんだよ…これ…」
胸元に手をあてながら、作弥はそう、呟いた。
お前には、走ってほしくない。
だって、そんなことしたら、
そんなこと、したら、
「ハッ、ハッ」
響き渡る、生徒たちの声。
放課後は、校庭が最も活気づく時間帯だと、作弥はつくづく思った。
そんな中を、ひたすら走る。走り続ける。
後輩たちは、少し後ろの方を走っていた。新チームの方針の邪魔にならないよう、一緒に走ることは極力避けている。勿論、求められればそれに応じるが。
「ハッ、ハッ、ハッ…」
大した距離を走ってもいないのに、顔が歪む。
走ることで、生活の中のストレスなども解消してきた作弥であったが、先程からの胸の痛みが、いくら走っても消えないのだ。
いったい、どうしてしまったというのか。
そして、慎之助の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
あの、切なそうな表情が。
(なんなんだよ本当に…!)
つられるように、自らの顔も歪む。
慎之助のことを考える度に、胸の痛みは強さを増していく。
自分のことも、彼のことも、全く解らなくなってしまっていた。
「くそっ!」
前へ、前へ。
こんな痛み、走っていればきっと治まる。
集中すれば、きっと。
きっと…
(消えねえ…)
辺りが薄暗くなり、多くの部活動が切り上げ始めている頃。
作弥の表情は、更に険しいものへと変わっていた。
着替えのために借りた部室内で、盛大にため息をつく。
結局、いくら走っても胸の痛みが消えることはなく、むしろ強くなってしまったように感じられる。
(どうかしちまったのか…?オレ…)
走って何かが解決出来なかったのは、もしかしたらこれが初めてのことかもしれない。
何か悪い病気なのだろうか。
部長に一声かけ、校門に向かう作弥の足取りは、やけに重いものであった。
「…あ」
と、途中で、ただでさえ重い歩みに拍車をかけるようなことが、頭を過った。
(明日…どんな顔して慎之助に会えばいいんだよ…!)
放課後の別れ際を思い出して、頭を抱える。
そうでなくとも家が隣で、幼馴染で、登下校を共にしているのだ、避けるわけにはいかない。
だが、いざ面と向かった場合、何を話せばいいのだろうか。
(謝ったほうがいい…のか…?)
しかし、何について謝れば良いのか、作弥には皆目見当がつかなかった。
(直接本人に聞くのもなあ…)
彼の「あんな表情」は、正直もう見たくない。
思い出す度、胸が痛む。
こんな思い、もう沢山だ。
(そういえば、あいつちゃんと帰れたのか…?また探させるようなこと…)
歩みが、止まる。
否、心配する必要はない、と、自分に言い聞かせた。
あそこまで言ったのだ、きっと教室にいた誰かと帰ったのだろう。そうに違いない。
『帰ってやるよ、女子と』
思わず、拳を強く握る。
(別に…誰と帰ろうが、オレには関係ねーし…)
『そーかよ』
「…っ!」
乱暴に、前髪をかき上げる。
今にも、泣いてしまいそうだ。
あの顔を、思いだすだけで。
誰かと一緒に帰る姿を、想像しただけで。
「ばかやろー…」
誰に対して発した言葉なのか、正直なところ、定かではなかった。
校門の柱に、握った拳を強く叩きつける。
鋭い痛みが走ったが、胸の痛みの方が、遥かに大きい。
「ちくしょ…」
辺りは、さらに暗くなっていた。
まるで、今の自分の心の内を現しているかのようである。
外套が、夜道を照らしていたが、今の自分にはそんなものは無い。
「帰ろ…」
呟き、敷地内から外へと出た。
「遅い!」
(!)
突然発せられた声に、作弥の足が再び止まった。
心臓が、跳ね上がったように鼓動を速める。
先程までの痛みが、一瞬で何処かへと消えてしまった。
声のした方を見てみれば、暗い闇の中、壁にもたれかかっている人物と目が合った。
「な…んで…、帰った筈じゃ…」
「俺が素直にはいそーですかって帰るとでも思ったか?」
腕を組み、やはり不満そうな目で、こちらを見ている。
作弥が立ちつくしていると、慎之助は静かに歩み寄り、その手をとった。
「ほら、帰ろーぜ」
「…おう」
素直に応じたものの、作弥の頭の中は未だに混乱状態が続いていた。
何故、ここにいる?
あんな顔をしていたのに、何故待っていてくれる?
何故、
「好きなだけ走れたか?」
「あ、ああ…」
答えたものの、いざ何を話せばいいものか。
暗闇の中、久しぶりに手を繋いでいるという状況だけでも変に緊張するというのに。
作弥は、自分の身体が妙に熱くなっていることに気付いた。
鼓動は、相変わらず速い。
走っているわけでもないのに、何故こんなにも速まっているのだろうか。
慎之助も、それからは何も語らない。
沈黙だけが、二人の間に広がっていた。
(…謝った方が…いいのか…?)
チラリ、と、目だけで表情を窺う。
その瞳は、真っ直ぐ前を見つめていた。
怒っているのか、暗い所為ではっきりと読み取ることが出来ない。
「…」
「…」
黙ったまま、足だけが前へと向かう。
気心知れた仲なのに、一緒にいるだけで、苦しくなる。
だがそれは、先程までの痛みとは、全く違うものだった。
苦しさの中に、安心感と喜びとが混在する、不思議な感覚。
繋いだ手から、それらが湧き出るような。
「なあ」
響いた声に、ビクッと作弥の身体が反応する。
慎之助の瞳は、今度は真っ直ぐ作弥の顔に向けられていた。
その眼に、怒りの色は無い。
どこかホッとした作弥に、慎之助は続けた。
「何でそんなに走りたいんだよ」
「…は?」
「ただ身体鈍らせたくないだけじゃないだろ」
それは、「質問」ではなく、「確信」だった。
「それに、何で俺が一緒に走っちゃいけないのか、まだ理由聞いてないぞ」
「…」
逃げると思ったのか、慎之助の手に力がこもる。
二人の歩みが止まることはない。
「まあ、言いたくないならいーけど」
手の力が、緩んだ。
慎之助自ら、手を放そうとしたのだ。
だが、
「…!」
手が、離れることはない。
「…何で今聞くんだよ…ったく…」
反対に、作弥の手が、慎之助の手を握りしめている。
その顔は、暗闇ではっきりとは認識出来ないが、慎之助からはほのかに赤く見えた。
「作?」
「お前、そもそも何でオレが陸上やってるか知ってるのか?」
「は?いや…あれ?」
突然の問いかけに、慎之助は首を傾げる。そういえば、何故だろうか。
「足が速いから…じゃねーの?」
「…じゃあ、何で足が速いか知ってるか?」
「は!?」
生まれてからずっと幼馴染として傍にいたものの、流石に彼女の足の構造までは熟知してはいない。
じゃあ、何故そんなことを尋ねてくる?
慎之助が再び首を傾げていると、作弥はグッと手に力を込めた。
「痛――――――――っ!」
「お前ら追いかけてるうちに速くなったんだ馬鹿野郎!」
怒鳴った刹那、作弥はしまったというような顔になった。
慎之助はといえば、ぽかんとした表情のまま、固まっている。
二人の足取りが、止まった。
「俺たち…?」
「…あーもう、そーだよ!昔っからすぐにどっか行きやがって、捕まえるためにどれだけオレが走ったと思ってんだ!でっかくなると足も速くなりやがって…お前らに追いつけるくらいの足の速さキープしないと大変なんだぞこっちは!!」
一息で言った所為か、作弥は乱れた呼吸を整える。
一方の慎之助は、頭の中で今の台詞の内容を必死に整理していた。
「じゃあ、作が足速くなったのは俺と左勇を追いかけてたせいで、作が陸上やってるのも、俺たちを追いかけるためで…」
ならば、自分を一緒に走らせない理由は?
作弥の方に目をやると、今にも消えそうなくらい小さな声で、呟くように彼女は言った。
「…お前がこれ以上速くなったら、オレは追いつけなくなるだろーが…」
ただでさえ成長期で、しかも体育会系で、男と女という大きな違い。
いくら身体を鍛えても、いつかは限界がやって来る。
そうなってしまったら、自分はあっという間に取り残されてしまう。
作弥にとっては、それが恐怖だった。
が、
「…足の速さなんて、関係ないだろ」
俯く作弥に、慎之助はきっぱりとそう言った。
「足の速さ関係なしに、お前は俺も、左勇も見つけてくれるだろ?」
な?と、暗闇でも解るくらいの笑顔で。
その言葉に、作弥の顔が紅潮する。
(何だよ…また…)
繋いだ手から、慎之助の体温が伝わる。
心臓が、はっきりと聞こえてしまいそうなほど大きく鼓動を立てている。
いつまでも静まらないソレに、作弥は焦り、慌てて切り返す。
「…てか、いい加減方向音痴治せよ!」
「だって、俺方向音痴じゃないし」
「――――――――っこの無自覚野郎が!!!!」
作弥は、手をこれ以上ない程強く握り締めた。
慎之助が叫び声をあげる中、作弥の口元が少しだけ緩んでいたことを、慎之助が知ることはない。
そして、胸の異常の理由を作弥が知ることになるのは、もう少し後のことになる。
ただ、この日、互いの家に帰るまで二人が手を繋いでいたことは、紛れもない事実である。
――――――――――――――――――――――
ええと…甘めな話を目指したものの、何処か中途半端になってしまいました;;
まだ作ちゃんの方は無自覚です。次屋は自覚してます。たぶん。