目が覚めると、頬が濡れているのは、いつからだろうか
目が覚めると、底知れぬ恐怖感に抱かれるのは、いつからだろうか
目が覚めると、
自分の存在に疑問を抱くようになったのは、何時からだろうか――――――――
≪壱≫
食満 留太にとって、これまでの十七年と数カ月の人生の中で、「引っ越し」と「転校」という経験はそろって初めてのことである。
高校三年生への進級に合わせてという、なんとも中途半端な時期ではあるが、彼なりに納得してのことだ。
数年前に母親を亡くしているため、まだ幼い弟の面倒の多くは留太がみていた。
自身でも世話好きを自覚しており、弟も留太によく懐いていた。
受験等への影響を考慮したのか、留太のみ一人暮らしという案も父親から出たが、留太本人が拒否したのだ。
母の分も惜しみない愛情をもって接してくれる父親だが、随分と歳を重ねた所為か、最近は少し体調が優れないことが多い。
『親父だけに苦労させていられないだろ。それに親父が仕事遅くなったら、こいつの面倒みる人がいないしな』
そう笑って言ったのは、もう何週間前のことか。
自分は、それこそ何処にでもいるような高校生であって。
父も弟も、留太にとって大事な家族である。
「食満 留太」にとっては、それが当たり前のことなのだった。
しかし、留太が世に言う「普通の高校生」に当てはまるかどうかといえば、それは大きな間違いであって。
そして「引っ越し」と「転校」という出来事が、「食満 留太」という人物の人生を大きく方向転換させることになるとは、彼自身思ってもいなかったのである。
向かいの窓の外から眺める景色は、数週間前のそれとはすっかり変わっていた。
一度この校舎を訪れた際には、視線の先にある桜の花はまだ蕾だった。
それが今は、満開という言葉にふさわしい姿で、留太を見つめている。
もたれかかる壁の向こうからは、「さっさと席に着け!」という男性教師の声が響く。
―――転入手続を済ませてから今日この日まで、文字通りあっという間の時の流れであった。
先程から声を響かせている男性教師は今年一年、卒業まで世話になる人物であり、どことなく父親に似た、親近感のもてる人物である。
四月からの新しい学級だが、聞くところによると男性教師は彼らの一年次からの付き合いらしく、付き合いやすい面々がそろっていると明るく話していた。
留太自身、人付き合いは良い方なので、転較生にとっての一番の問題とされる、周囲との人間関係に関してはさほど気にしてはいなかったが。
耳をそばだてて聞いてみると、中々室内の雑談が止まない。
(これくらい賑やかな方が、むしろ楽だけどな)
クラス替えもあったであろうが、それを踏まえたうえでのこの賑やかさは、逆に安心を生む。
ふと、口元が緩んだ。
…「あの頃」も、自分の周りは「賑やか」そのものだった。
(…こんな時に、何を考えてるんだよ)
目を細めて、窓外の景色を見つめる。
校舎が市街地に建っていることもあり、立ち並ぶ高層建造物の数は、留太が今まで暮らしていた場所よりも遥かに多い。
(結構な田舎だったからな…)
聳え立つ鉄骨。固い地面。
まだ十七歳だというのに、人よりも時代の流れを強く感じるのは、きっと、
(…いや)
確実に、
「―――というわけだ、皆仲良くするように!それじゃあ…食満!」
「っハイ!」
突然名を呼ばれ、思わず上ずった返事を返してしまう。
外を眺め過ぎていたのか、教師は新学期の挨拶のようなものを既に済ませてしまったようである。
ガラリと扉が開き、そこから教師が顔をのぞかせる。
「入っていいぞ、自己紹介してくれ」
「ハイ」
自己紹介、の言葉を聞いた瞬間、自分の心臓が、少しだけその鼓動を早めたような気がした。
これから面と向かうのは、皆名も顔も知らない人々ばかりなのだ。
(『完全アウェイ』ってやつか…)
上等だ。
口端が、ほんの少しだけ上がる。
昔から好戦的な性格故、「戦い」に変換した方が物事を受け入れ易いところがあった。
促され、足を一歩、扉に向けて踏み出した、
その瞬間、
『ずっと傍で見てきたけど、本当に戦うのが好きだよね』
「え…?」
思わず足が止まる。
「どうした?」
その様子を見て首を傾げる教師に、直ぐに「何でもないです」と返す。
(…今の…)
聞き覚えのある声が、頭の中に響き渡った。
声の主は、
『またそんなに怪我してきて!誰が治療すると思っているんだよ!』
『こうしていられるのも、あとどれくらいなんだろうね…』
『…絶対に君は死なないよ…だって――――』
君の不運は全部、僕がもって行くんだから
(っ…何で…)
鼓動が、速まる。
それは決して緊張からくるものではなく、明らかにこの声が為すものである。
不思議なことに、扉に近づくにつれてその「声」が大きくなっていくように感じられた。
(何で、こんな時に…)
説明できない苦しさに、危うく顔を歪ませてしまいそうなところだが、担任教師に心配をかけるようなことは避けたい。
「おい?」
「…っ大丈夫です!」
緊張か?と茶化す担任に、軽く笑って返すが、胸中は穏やかではなかった。
思えば、初めてこの学校を訪れた時からだ。
何か、胸騒ぎがするのは
(違う…違うだろ)
窓も、柱も、床も、扉も。
「あの頃」とは全てが違う。
何もかも違うのだ、勿論、自分も含めて。
遥か昔に「置いて」きたはずのものが、何故甦るのか。
(アイツも…アイツ等も…いないだろ)
廊下と教室の境を越えた、その瞬間。
室内の視線全てが、一斉に自分に向うのを肌で感じた。
小声が耳に入る。容姿、態度などを気にしているのだろう。
第一印象は最低限良くなければならないと考え、留太はただでさえ鋭い目つきをどうにかして緩ませようと試みる。
(いや、やっぱりよそう。気持ち悪くなるだけだ)
直ぐに挫折し、教卓の横に立つよう促される。
(こういう時って、何処に視線をやればいいのか悩むんだよな)
クラスメイト達に顔を向けると、全員がしっかりとこちらを見ている。
その視線の量に気圧され、留太は思わず視線を教室の後ろに逸らした。
上手く、「全員をしっかりと見ている」という印象を与えられるくらいの角度を保ちながら。
「食満留太です。よろしくお願いします」
そう言うと、程無く教室全体から拍手が沸き起こった。
何も大したことはしていないのだが、こうして大勢からの拍手を受けるのは、何処か気恥ずかしく、そして何処か嬉しい、と感じるものがある。
「皆、解らないことは色々教えてあげるように」
担任教師はそう言うと、留太の方に向き直った。
「それじゃあ席なんだが…一番奥の」
次の瞬間、
留太は、自分の耳を疑った。
「善法寺の隣に座ってくれ」
「―――――っ!?」
「ああ、悪い悪い、名前だけ言っても解らないよな、おーい善法寺!」
何度も担任の口から発せられるその名に、漸く静まったと思っていた留太の心臓は、再び大きく跳ね上がった。
その名は。
その名の、持ち主は。
頭の中に、古ぼけた、しかしはっきりと刻みこまれた記憶の欠片が、泉のように沸き出てくる。
(あいつは…)
よく笑い、よく泣き、よく怒り、よく悲しみ、
そして――――…
「はい」
声のした方に、戸惑いながらも視線を移した。
「あそこだ。じゃあ早速座ってくれ」
「は…い…」
上手く返事が出来たかどうか、留太自身解らなかった。
視線を、逸らすことが出来ない。
おそらく、自分の席を認識し、足を踏み出すことで精一杯だった筈である。
何故ならば、
(嘘…だろ…)
距離が縮まるにつれて、様々な「モノ」がこみ上げてくる。
たった数歩の距離だというのに、留太には長い、永い道程に思えた。
一歩近づく毎に、一つ。
『文句言うなら部屋を変えればいいじゃないか!分からず屋の戦闘馬鹿!』
『なっ…!じゃあテメエが出て行けよ!不運野郎が!』
また、一つ。
「彼」との日々が、甦っていく。
『…何泣いてるんだよ』
『別に、泣いてなんかない』
『じゃあ、目が赤いのは何故だ』
『…だ…って…こんな大怪我…っ!!』
『お前は無事だろうが』
(ああ…そうだ、あの時、)
『命を粗末にするな!!次にそんなこと言ったら、僕は君と縁を切る!』
遥か昔に叩かれた頬が、妙に疼く。
当時の光景を思い出したからか、それとも、
「善法寺伊咲です。よろしくお願いします、食満君」
いつの間にか目の前にまできていたその「少女」の表情が、「伊作」そのものだったからだろうか。